ウィリアム・ジェイムズとヘンリー・ジェイムズ


はじめに

 バージニア大学出版によって1992年から刊行され、現在もその途中にある『ウィリアム・ジェイムズ往復書簡集 (The Correspondence of William James)』第2巻の序論を担当したD・M・フォーゲルは、次のような興味深い文章で、その冒頭を飾っている。
「喜劇小説家ピーター・ドブリーズは、アメリカ文化のすべては二組のジェイムズ兄弟の間にその在りかが見つけられる、と言ったことがある。もちろん、その二組の最初は、共にアウトローであるフランクとジェシーの兄弟、次は心理学者で哲学者のウィリアムと小説家ヘンリーの兄弟である。・・・」
(1)
 この突飛な比較について、私なりに補足して言わせてもらえば、発展しつつあるアメリカをドラマとして描くとすれば、「西部劇」ではフランクとジェシーの兄弟を、「東部劇」ではウィリアムとヘンリーの兄弟をヒーローにすれば、アメリカの本質を恰好に浮き彫り出来るのではないかということだ。あるいは、別の視点で考えてみるならば、もしヨーロッパ文化と完全に決別し、大地を開拓していくことでしか自らの生きる証しを求められなかった純粋のアメリカ人の実生活ぶりを描くとするならば、フランクとジェシーがヒーローとなるドラマを作ればよく、又、もしヨーロッパ文化と完全には決別しきれないが故に、その葛藤を通してしか、新しいアイデンティティーを求められなかったコスモポリタンのアメリカ人の精神生活ぶりを描くとするならば、ウィリアムとヘンリーがヒーローとなるドラマを作ればよいということなのだ。
 ともあれ、この二組の兄弟を対照させつつ、「アメリカとは何であるのか」を考えていくのは、確かにおもしろい試みであろう。もっとも、フランクとジェシーの場合は、そのアウトローとしての生活形態から、社会的制裁を受け、20世紀を越えてまで活躍できなかったこと、及び資料不足から、ほとんど伝説化され創作化された姿をもとにしてしか考えられなかった点から、逆像としての意味は持つとしても、彼らが真にアメリカ人の生き方を投影しているかどうかについては疑問のあるのはよく分かっている。だからといって、アメリカ人の生き方を考えるに、完全に黙殺されべきではないと、私は思うのであるが、本編では、それ以上の詮索をするつもりはないし、その資格もない。
 やはり、建前上から語るとなると、アメリカの文化を知る上において、とりわけ19世紀後半から20世紀初頭に至る間に醸成されたアメリカ固有の文化を知る上において、等閑視できないのは、ウィリアムとヘンリーの兄弟の存在と言うことになろう。幸いにも、彼らの知的な生活形態から、彼らを知る資料はそれこそ無尽蔵と言ってよいほどにある。彼ら自身の著作はほとんどと言ってよいほどに単行本として刊行されているばかりか、彼らの死後も権威ある著作集
(2)が今に至るも刊行されている。又書簡集もそれぞれに出されているし、研究書の類に至っては、R・B・ペリーの『ウィリアム・ジェイムズの思想と性格』全2巻(リトル・ブラウン社)とL・エデルの『ヘンリー・ジェイムズの生涯』全5巻(フィラデルフィア:リピンコット社)を筆頭に、枚挙にいとまがない。従って、後世の人が彼らについて興味を覚えれば、いつでも調べられる状況にあるのである。
 にもかかわらず、彼ら二人の考え方の比較、吟味がこれまで正面からなされてこなかったのは不思議と言えば不思議である。彼ら二人は共に著名な文化人であるから、それぞれの研究者がいるにはいる。だが、大抵の場合は、ウイリアムの研究者にとれば、ヘンリーはウィリアムの弟という、又ヘンリーの研究者にとれば、ウィリアムはヘンリーの兄という扱い以上のことはしてこなかった。
 これは、考えられるに、二人の一方は学者であり、他方は作家であるというように、言わば領域を全く異にするところからきているせいかもしれない。当然彼らの研究者も二人の属する専門領域の人間ということになりやすく、専門外の事柄への言及は、興味の薄さも手伝って、遠慮していたということなのかも知れない。
 実は、私自身もその内の一人であった。私はウィリアムの方に属する人間であり、学生時代から彼の考えに興味を引かれ、研究させてもらったおかげで、一応はその研究成果まがいの解説書として『ジェイムズ経験論の諸問題』と『ジェイムズ経験論の周辺』の二作品を法律文化社より刊行することができ、その又おかげというわけでもないが、大学での哲学教師という職にありつけ、今に至っているのであるが、その間を通じて、私はヘンリーについては、ウィリアムの弟という以上の言及をしてこなかったし、しかもそのヘンリーについても、ウィリアムの関連資料の中から選んでの言及しかしてこなかったのは、紛れもない事実であった。
 でも、それは研究しようとする者にとっては仕方のない話であろう。そこで本編では、冒頭紹介したウィリアムの往復書簡集が出、その3巻がヘンリーとの間で交わされた書簡集であり、ヘンリーのかなりプライベートな考えも知ることができるようになったのを機に、これまでのような、ウィリアムについてのみ語ると言ったスタイルを改め、「アメリカとは何であるのか」、「アメリカの文化とは何であるのか」を明らかにする目的で、その素材として、ジェイムズ家の家族
(3)に起こった出来事を取り上げるという形で、一種の「ジェイムズ論」を展開してみたいと思う。
 その前に、少しばかり付言させてもらえば、元々、私がウィリアム・ジェイムズに興味を持ったのは、『ジェイムズ経験論の諸問題』(以下『諸問題』と略記)の「あとがき」にも書いているように、「今世界で注目をあびているアメリカの行動が少しも理解できないからである。・・ウィリアム・ジェイムズの思想をみることによって、少しはアメリカ人の心の中に入りこめるのではないかと思ったのである。」
(4)
 私に『諸問題』に取り組ませた直接の動機はアメリカのベトナム介入であった。その気持ちは20年経った今日においても変わっていない。というのは、私の問題意識として常にアメリカについての不可解な思いが去来し続けているからである。例えば、ヨーロッパの干渉を排除することを対外政策の基調とするモンロー主義を掲げているアメリカが何故に「汎米主義」に転じ、ラテン・アメリカを始め東南アジアを自らの影響下におこうとして、進出していったのだろうか。そして第2次大戦後の朝鮮やベトナムへの干渉は冷戦時代の単なる所産以上のものが働いていたためではないのか。だからこそ、冷戦終結後もイラク制裁を正義の行いとして自負しているのではないだろうか、等々である。
 もちろん、これらへのアプローチは政治学者や経済学者や歴史学者によっておおむねなされているだろう。しかし、私のように、アメリカのベトナム介入とイラク制裁は同根であったと見なそうとする立場からすれば、この問題に答えるためには、文字通り「アメリカ人の考え方」そのものに、言い換えれば「アメリカ文化」そのものに着目するのも大事なことではなかろうかと、思われたのである。
 以上が、これから私が独自の観点で「ジェイムズ論」を展開する理由である。しかし本編はその本題に入る前の前口上的性格を持つもの以上のものではない。
 
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 1861年4月、アメリカ合衆国での唯一の内戦が始った。「自由」と「平等」を謳ってこそのアメリカは、その前年、アメリカ連合国の誕生という内部矛盾を露呈していた。内戦は、地理的には工業の育成を基礎とするアメリカ北部と大農場制を維持しようとする南部との間で行われた。でも、実体は北部の人たちの考えをアメリカ合衆国の考えとするための分派国家に対する武力制裁であったことは歴史が示していた。南部によって構成されるアメリカ連合国の建て前は、その建国精神にそぐわない部分を内包していたが故に、通用しなかった。錦の御旗は、北部の人たちによって喧伝され、アメリカ合衆国が確固たる国民国家として統一され、世界に再確認されるためにと打ち振られた。連邦制度維持のかけ声は、北部の人たちによって高らかに唱和され、悪と認定された内なる敵を駆逐するためのナショナリズムの精神を産んだ。奴隷制廃止の謳い文句はアメリカ人であることを自ら証明するためのヒューマニズムの精神を具現化した。北部の人たちはおおむねその錦の御旗を信じて疑わなかった。志願兵となって、それらを行動に移そうとする者も少なくはなかった。
丁度、ここ、ロードアイランド州、ニューポートの町にジェイムズ家の人たちが住んでいた。一家はヘンリー(50歳)とメアリー・ウォルシュ(51歳)夫妻とその長男ウィリアム(19歳)、次男ヘンリー(18歳)、三男ガース・ウィルキンソン(16歳)、四男ロバートソン(14歳)、そして娘のアリス(12歳)の7人で構成されていた。
(5)では、この年から南北戦争の終わる1865年に至るこの一家の4年間においてはどのようなドラマが展開されていったのか。後にウィリアムとヘンリーがアメリカの代表的な文化人と表される以上は、そのドラマをのぞき見るのは許されよう。従って私は本編の主人公である長男のウィリアムとその一つ年下の次男ヘンリーに視点を置いて、これから、この一家についての話を進めようと思う。(6)
 このジェイムズ家はアメリカではいわゆる「名門」と言ってよいだろう。アメリカで名門となるには歴史は要らなかった。先代が大資産を形成すれば、それでよかった。この家も、アメリカの独立後すぐに「わずかばかりの金」と「ラテン語文法書」を携えてアイルランドから移住したわれらの主人公達の祖父ウィリアムの一代によって得た富と名声によって名門となった恰好の例であった。彼には13人の子どもがいて、それぞれに遺産が分配された。彼の子供の代は、いわゆる後に財閥となったモルガンのような「13の名門」が形成される礎の時代背景を持っていたが、蓄財能力を持つ子供がいなかったために、その中には入れなかった。だが、それでも各子供が得た遺産は一生働かずに喰っていけるだけの額だった。
 その恩恵を最も享受したのが父ヘンリーだった。もっとも、祖父からは、この父ヘンリーは蓄財にはあまり興味を示さぬ資質の持ち主とみられたようで、あまり期待されていなかった。おそらく、そのためであろうか、父ヘンリーは、当初、涙金ほどの遺産しかもらえなかったようである。それで父ヘンリーは裁判に訴えてまでその不合理さをついたおかげで、後に事故で隻脚となった彼にも、働かずに喰っていけるだけの遺産が与えられることになったのだった。
 いわゆる「職業」にも就かず、本とペンと文化人との交友がすべてであった父ヘンリーは、今で言う猛烈な「教育パパ」だった。父は子供たちに対しては「感情教育 (sensuouseducation)」を施したかったと言う。その意図は、ある場合にはヨーロッパ文化になじませたいということで、又ある場合はアメリカの教育環境が悪いとばかりに、一家を引き連れての数多いヨーロッパ旅行となった。次から次へと場所を変えるため、子供達は「ホテルっ子」だった。次男のヘンリーに至っては、生まれて初めて意識して見たのは、ヨーロッパの光景だったとか、果ては、ヨーロッパの病菌を吸い込んだとか、と述懐するほどであった。
 ジェイムズ家の人たちが南北戦争勃発のニュースを聞いたここニューポートの自宅は、その3年前に手に入れていたものであった。とは言え、その間も1年間はヨーロッパに行っており、ウィリアムが絵を学びたいというので、わざわざ帰国してからも、半年は住んでいた。もちろん、アメリカ北部にあるこの町の雰囲気はジェイムズ家の人たちも充分するくらいに分かっていた。当然、彼らの主張も北部の考えを代弁する形でなされていただろうことは、想像に難くない。とりわけ開戦当初の北部側の不利が伝わるにつれて、一家の中にも愛国精神の昂揚がなされていったのも事実である。陽気で一家の中心であったウィリアムなどはそう言った思いで、ニューポートでの戦意昂揚のアジテーションを見聞きしているはずである。ウィリアムに比べて控えめだったが、感受性の高かったヘンリーも心の中ではその思いをたぎらせていただろう。その思いはさらに年下のウィルキンソンやロバートソンにも、さらに純粋化されて伝わっていっただろう。
 だが、妹のアリスは別として、4人の男兄弟の中で、兵士として南北戦争に参加していったのは、三男のウィルキンソンと四男のロバートソンだった。ウィルキンソンは戦争の2年目の1862年に「戦争に行くことは実に輝かしいことと思われて」
(7)入隊した。が、その翌年のフォート・ワグナーの戦いで負傷し、家に戻った。そのことに刺激を受けたかどうかは不明だが、ロバートソンも1864年、入隊した。 
 他方、長男のウィリアムは開戦の年に、画家になることをあきらめて、父の元々の希望である学者になるための第一歩として、ハーバード大学理学部に入り、ニューポートを離れ、大学近くに下宿した。1864年には医学部に入り、戦争終結の1865年には、アガッシのアマゾン探検隊に参加していて、アメリカにはいなかった。次男のヘンリーは開戦の年の秋にニューポートで起こった火災の消火作業中に柵に挟まれ、その後の人生にも影響を与えたと言われる背中の負傷をしていた。1862年、兄と同じハーバード大学の法学部に入ったが、その方面への興味はなく、翌年、そこを退学し、文学で身を立てようと決心した。そして戦争終結の直前に、南北戦争を素材にして、最初の署名入りの短編『ある年の物語』を発表して文壇にデビューしていた。
 さて、ジェイムズ家そのものは、1864年にニューポートからボストンに転居している。そして戦争終結の年の翌年には、ボストンの川向かいにあるマサチュセッツ州のケンブリッジに再び転居している。おそらく父ヘンリー自身の知的世界に浸りたいとする気持ちからとウィリアムとヘンリーの将来を思っての親心からだろうと想像しても間違いはないであろう。
この南北戦争のあった期間は、子供としても、親の教育方針に従いつつも、それぞれ精神的に独立していこうとする姿がかいま見られ、興味深いものがあった。しかし、この一家を見るに、もっと興味深いのは、何と言っても、次の点であろう。即ち、アメリカにとって決して無視できない歴史的事件を前にして、いずれも多感的であっただろうに、何故ウィリアムとヘンリーは銃を持って戦わず、ウィルキンソンとロバートソンは銃を持って戦ったのか、という点である。いずれも戦うか、いずれも戦わなかったなら、一家としての理由説明は合理的につけられただろう。だが、そうでなかったところが、われわれの詮索心をあおり立てるのである。
 不思議なことに、数えきれぬほどの作品を残しているウィリアムとヘンリーが従軍しなかったことについて直接述べているところはない。又二人とも筆まめと言われ、死後にも書簡集が出されたりしているのに、後のジェイムズ家の人の手を通っているせいかどうか分からないが、そこにも言及されたものは寡聞にして見いだされない。(直接に言わなかったことについては、他にヘンリーが生涯独身を通したことについても挙げられる。)
 二人にとってそれは述べるに値しない些末なことがらであったのか。よいように解釈すれば、彼ら二人にとって個人的にそのことよりもより重要だと思わせるものが他にあったからなのか。あるいは又、彼らの資質そのものが、例えば個人主義的で「非体系的な逍遥家」であったり、「非行動的な観察者」であったりしたが故に、戦争参加という当事者になりにくかったからなのか。それとも、本人が直接には言われないようなジェイムズ家の事情、あるいは言ったとしても、それはジェイムズ家にとっては不名誉なこととされるので抹殺されてしまったためなのか。
 それでも、そのことについて、巷間、言われているような説はあるにはあるので紹介しておこう。ウィリアムについては、例えばR・B・ペリーは、そのころは身体的に脆弱であったためだとか、社会的、政治的関心がまだ熟していなかったためだろうとかといった風に、代わって説明している。ヘンリーについては、先の負傷、彼自身の言葉によれば「解しがたい負傷( obscure hurt )」をしたことが、彼をして従軍させなかったのだとは、(それは又彼をして生涯独身を通させたのだと言うのも含めて)一般によく言われていることではある。 
更には「教育パパ」たる父の意向が働いていたからなのだとの説もある。つまり年上の二人の兄弟が戦争に行くのは反対したが、年下の二人の兄弟の場合は殊更に反対しなかったというのである。はたして父ヘンリーはジェイムズ家の国に対する義務と名誉を守るために、子供達の値打ちを推し量ったのか。とは言え、断定を下しうるほどの確固たる証拠はどこにもないと言うのが、説を展開した人すべての断り書きではあった。
 この問題はウィリアムとヘンリーがあまりにも有名になりすぎたために、注目されているだけの話かも知れない。言わばアメリカのみならず、どこの国にでもある話であろう。
しかし、私は、どのような理由があったとしても、実際にウィリアムとヘンリーが戦争に行かなかったということは、弟たちが逆に行っているだけに、後の生活にかなりのコンプレックスなり、影響なりを与えていたと思いたいのである。
 まず一つは、彼らは戦争に行かなかったことを正当化する意味でも、元々彼らにあった資質をより顕在化する形で作品が書かれていったのではないかということである。つまりは資質が原因で戦争に行かなかったのではなくて、戦争に行かなかったことが、彼らの資質に磨きをかける役割を果たさせたということである。
 二つは弟たちに対するこだわりである。元々ジェイムズ家の5人の兄弟達は全員なんらかの病気持ちだった。南北戦争時には、たまたま丈夫であったウィルキンソンとロバートソンは従軍したが、帰還後、農園に行ったり鉄道の事業に手を染めたりしていたが、祖父ジェイムズの事業の資質は受け継がれなかったのか、ことごとく失敗した。父ヘンリーは贖罪からなのか、経済的にずいぶんと援助してやったらしいが、ウィルキンソンの方はそれでも借金苦から解放されず、そのせいだとは完全に言われないとしても、38歳の若さで腎臓を悪くして死んだ。ロバートソンはアル中になり、入院することともなった。そのロバートソンに対して、ウィリアムはしばしば金を与えたとも言われている。結局は、妹のアリスも肺の病気で若死にするところから、ウィリアム、次いでヘンリーが長く生きることとなったが、その間、彼らがウィルキンソンやロバートソンに対する気遣いは、単に弟だからと言う以上のものがあったことが、彼らの書簡集からもかいま見られる。父親の遺産分配で不利な扱いを受けたウィルキンソンが「子供達の中で自分たちは家族を守るための戦争であえて戦おうとした唯一の二人なのだ」
(8)とロバートソンに言っているその思いは、まさにあえて戦おうとしなかったウィリアムとヘンリーに感じとられないはずはなかったのである。
 三つは、それでも、何らかの形で、後にウィリアムとヘンリーは戦争に対しても目を向けるようになったことだろう。「非体系的な逍遥家」で、その思想も極めて個人主義的であるウィリアムも、南北戦争後、アメリカが力をつけると同時に、帝国主義的になり、他国への干渉、戦争を引き起こすようになると、言葉を挟むようになった。身を持って挺すると言うわけではなかったが、かなり積極的に動こうとしたことは事実だったし、又学者として南北戦争を初めとして戦争一般についても論を張ることもあった。あの「非行動的な観察者」であるヘンリーも、第一次大戦が始まると、ドイツ嫌いであったためだけからでもなかっただろうが、傷病兵を慰問したり、難民の援助をしたり、アメリカ野戦衛生隊を激励するなどの積極的な行動をとることさえしていたのである。彼ら二人がこのような行動にでるとき、南北戦争時に従軍しなかったことへの忸怩たる思いが去来していただろうことは間違いはないと、私には思われるのである。

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 さて、私は舞台を南北戦争より半世紀近く経った1910年のドイツ内のある保養地に移したいと思う。そこには、二人の文化人が逗留していた。言うまでもなく、二人とは本編の主人公達であり、一人は心理学者、哲学者として有名となったウィリアム、もう一人は小説家として有名となったヘンリーである。すでに功なり名をとげた二人の兄弟は、それぞれの総決算とも言うべき作品にとりかかっていた。それは、彼らの死後、未完の作品として発表され、ウィリアムの場合は『哲学の諸問題』、ヘンリーの場合は『象牙の塔』と命名された。しかし、この時彼らは、年齢的なことと、年来の病弱によってひどく健康を害していたために、それを取り戻すべくこの地に来ていたのであった。(もっとも、弟ヘンリーにとれば、より病弱だった兄ウィリアムの見舞いの気持ちも含まれていたらしかったが。)
 この兄弟は父ヘンリーの精神的遺産を、言い換えればカルビニズムの保守的伝統性を認める心と新しいものの出現をも受け入れる革新的な心とを、受け継ぎ、それぞれの分野で開花させていた。彼ら自身の精神がはぐくんだ時代は、アメリカ建国後200年経っていた。国としてのアメリカは他国を凌駕するくらいの力を持つまでには至ったものの、いわゆる固有の「アメリカ文化」なるものの市民権はまだ得ていなかった。それが父ヘンリーのアメリカについての認識だった。それが故に、ウィリアムとヘンリーを含む兄弟たちは父の教育方針に従って、ヨーロッパ文化になじまされることとなった。
 そのおかげで曲がりなりにも「二つの文化」を知った二人は、コスモポリタン的な考え方をすると言えば、聞こえはよいが、実際は「二つの文化」の狭間にあって、アメリカ人としてのアイデンティティーを模索するための葛藤を繰り返すこととなった。ウィリアムは「アメリカにいる時はヨーロッパ的で、ヨーロッパにいる時はアメリカ的な」
(9)気分にさせられたし、ヘンリーは「アメリカのことを書いているイギリス人なのか、イギリスのことを書いているアメリカ人なのか分からなくなるような」(10) 小説を書きたくなる衝動に駆られた。
 しかし、徐々に彼らは、「古いもの」に心惹かれる者と「新しいもの」に心惹かれる者とに別れていった。即ち、ヘンリーは、アメリカには「君主もない、宮廷もない、個人の忠誠もない、貴族制度もない、国教会もない、国教会の牧師もない、軍隊もない、外交機関もない、地方の大地主もない、宮殿もない、城郭もない、荘園もない、古い大地主の邸宅もない、牧師館もない、かやぶき屋根の田舎屋もなく、つたのはった廃墟もない」(
11) として、ヨーロッパへの永住を決めたのだった。ウィリアムにとれば、逆にそのことは、「ヨーロッパは窮屈で古い」(12) と印象づけるなにものでもなかった。ウィリアムは未来が過去の同一的な繰り返しでもなく、模倣でもないのだと期待する「自由意志」の働きを認めるアメリカに価値をおいたのだった。
 ウィリアムが心理学者、哲学者になり、ヘンリーが小説家になったという事実は、生まれてから自らの生き方を決めるようになった15、6歳まで同じ土壌で育っているにもかかわらず、違った結実を示す例として、それだけでも面白いパトグラフィーの対象にはなろう。だがそれについては誰もが正しくは解明できないだろう。性格的にはウィリアムは陽気で明るい社交家であり、ヘンリーは内向的で孤独好きであったのは確かである。考え方から言えば、ウイリアムは物事に囚われず、多元的で柔軟であったが、ヘンリーは貴族趣味的なところがあり伝統にひどく拘っていた。それならば、二人はそれぞれ逆の職業に就いていた方がよかったかも知れないが、そうでないところが何とも皮肉である。二人を比較するあまりにも有名な決まり文句「ウィリアムは小説のような哲学を書き、ヘンリーは哲学のような小説を書いた」は、案外、そのあたりを和解させた後の人のつじつま合わせなのかも知れない。  
 いずれにしても、二人は奇妙な兄弟だった。同根であるが故のライバル意識があったとも考えられる。その証拠に、あれほど文学者の作品から引用するのが好きなウィリアムが、彼より早く世に出ていたヘンリーの文を敬意を表して引用したことはなかったし、あれほど自伝的と思わせる小説を数多く書いたヘンリーが、(本物の自伝を除いて)その中に兄弟の葛藤を思わせ、ウィリアムと特定されやすい人物を積極的に描いたものがあるとは、少なくとも、私には思われないのである。
(13)
 そのくせ、ボリュームある本3冊分ができあがるくらいの手紙を交わすほどの、それこそ「ホモセクシャルな関係」にあったのでないかとうがった見方をされそうな親密さも持ち合わせていたのである。(もっとも、手紙の中ではお互いの作品については言及しあっていた。ウィリアムはヘンリーの作品に対しては賛辞を表したりもしたが、それ以上に、ずけずけと批判したりもした。それに対してヘンリーの方は差し障りのない程度の一般的な賛辞を表したのみであった。)
 さて、ナウハイムというドイツの温泉療養地で邂逅したウィリアムとヘンリーは、ある時、兄弟を一番長く悩ました弟のロバートソンについて想い出していた。元来が孤独な独身者のヘンリーには、彼には良い印象だけを持ち、それほどのこだわりを示さなかったが、長兄のウィリアムには何か責任感のようなものを感じ、彼からも解放されたい気持ちもないではなかった。しかしそれ以上に、父ヘンリー・ジェイムズ家としては、二人だけが生き残っているという寂しさの方が強かった。南北戦争後、各自が独自の生活を送るようになり、家族全員が揃ったのは、母の死亡時だけだったことを二人は想い出していた。
 それでも、彼らには各自の資質に従って、何かをせねばならないという使命感のようなものが横溢していた。であればこそ、二人がこの療養地に来たのは、その使命感を果たすためには、体の快復を図ることが一番だと考えたからではなかっただろうか。ウィリアムの関心は、心理学から、宗教にいたり、この時は哲学にあった。そしてその成果は『プラグマティズム』として刊行され、後にその考えは「アメリカ固有の哲学」として世に喧伝されることとなった。しかしその哲学も、ウィリアムにしてみれば、一方にのみ建てられたアーチのようなものとしてしか構築されていなかった。もう一方のアーチを建てることの必要性を彼はひしひしと感じていた。
 他方、ヘンリーは若くして名が知られるようになったが、スランプに陥り、それから立ち直って後、F・O・マシーセンのいう「大局面 (The Major Phase)」を迎えることとなり、『鳩の翼』、『使者たち』、『黄金の盃』の3大作品を次から次へと刊行していった。
 いわゆるここでヘンリー自身のテーマでもある「国際状況」を「間接手法」
(14) でもって語るパターンが完成されたとも言われたのである。しかしそのヘンリーにも何かが欠けているという意識があった。それは「国際状況」が語られるにしても、底流には、アメリカ人としての生活をしてきた者が主人公となって、そのもとでヨーロッパの人と姿との関係が語られているというこれまでのスタイルに対するものたらなさとなっていたと思われる。アメリカ人ではあるが、イギリスに長く住んできたヘンリーにとっては、それ故に、今度は、逆にヨーロッパ人としての目を通してアメリカとの関係を語ることで、まさに「国際状況」のテーマが全うされると考えるに至ったのである。
 しかし、先にも述べた如く、彼ら二人の構想はいずれも中途半端に終わって実らなかった。まず、温泉地での療養にもかかわらず、ウィリアムが病状を悪化させたのである。彼は喘息がひどくなり、心臓も弱ってきていることに気づいた。死期すらも感じ始めてきたようである。この時、われわれがその場に居合わせていたならば、きっと興味深い会話がウィリアムとヘンリーとの間で交わされていることに遭遇しただろうと、私には思われる。以後、私の想像であるが、おそらくウィリアムは、アメリカに帰りたい、同じ死ぬならアメリカで死にたい、とヘンリーに言って、聞かなかったに違いない。思想的にもウィリアムはコスモポリタンであったし、ヨーロッパの事情にも十分通じていただろう。だが、そうであったとしても、彼はよその国で死にたくはなく、日本流に言うならば、畳の上で死にたかったのであろう。
 逆にヘンリーにしてみれば、兄の思いはどうでもよいことに違いなかった。しかし肉親の情だけの理由で、結局、兄の言うことに従い、ヘンリーは、兄に付き添うようにして、故国に戻った。いや戻ったと言うよりは、この時の気持ちでは故国を訪れたと言った方がよいかも知れない。そして、ウィリアムはアメリカに着いて、早々亡くなった。まるでアメリカで死ぬことですべての目的が達せられたようにも思われんばかりにである。
 ウィリアムが死に、そして弟のロバートソンも同年なくなったので、ヘンリーは父ヘンリー・ジェイムズ家の最後の人間となった。彼は翌年秋まで故国に滞在した。その間、自作を上演するなどの公の活動をしたりもしたが、滞在していたのは、実際は、兄ウィリアムと以前の自宅を個人的に偲ぶためであり、そのために次のジェイムズ家をあずかっている兄嫁としばらくは滞在するという約束を果たすためだけだった。ヘンリーにとって、もはやアメリカは外国でしかなかった。おればおるほど孤独感が増してきていた。奇妙な言い方だが、ヘンリーはアメリカに最後の別れの挨拶をするために帰ってきたようなものだった。
 再び、イギリスに戻ったヘンリーは、やはり二度とアメリカには戻らなかった。彼自身の体調も、一時は快復したものの、再び悪くなってきたせいもあって、若干の作品は発表したりもしたが、肝心の『象牙の塔』は遅々として進まなかった。その代わり、自伝めいた作品を手がけるようになり、家族のことについて数多く語るようになったのは、いかなる心情が働いたからなのだろうか。死の前年、ヘンリーはとうとうイギリスに帰化した。それは『象牙の塔』を本当のものにしたかったとの思いからなのか、それとも第一次大戦が起こったことが原因していたからなのか、それは分からない。
 1916年、ヘンリーはイギリス人として死んだ。しかし、遺骨は、アメリカに拘ったウィリアムの遺志が働いたのか、ヘンリーのいやがるアメリカに戻ることとなり、マサチュセッツ州ケンブリッジのジェイムズ家の墓の中で、父ヘンリー、母メアリー・ウォルシュ、兄ウィリアム、そして妹アリスと共に眠ることとなったのである。

おわりに

 さて、私は今、ジェイムズ家の二人の兄弟、ウィリアムとヘンリーについての話を終えた。とは言え、本論集の性格上、枚数に限度もあるので、本編では、彼らについて私が最もティピカルな事例と思われる二つのケースを選んで、それをエピソディックに述べていったまでである。他の点については別の機会にしようと思う。
 勿論これでもって「アメリカ」について、具体的にはアメリカの家族の特徴についてさえも、語りえたとするのは、おこがましいの限りであろう。これはあくまでもきっかけをつくったにすぎない。さらに付言すれば、ウィリアムとヘンリーのジェイムズ家は一種のエリート家族であるからして、アメリカを語るに不適切かも知れない。冒頭述べたように、真にアメリカを語るには、ことさらに除外してしまった南軍ゲリラ出身のフランクとジェシーのジェイムズ家の方が題材としてよかったのかも知れない。しかしながら、アメリカは南北戦争によって南部を、そして後には西部を、東部の考えによって吸収してしまった以上、本編の主人公たる東部の人達の考えをアメリカの考えとせざるを得ないのは、歴史的に仕方のない話である。
どうやら私は、ウィリアムとヘンリーのジェイムズ家をアメリカの象徴的な家族として持っていこうと躍起になっている観がある。その強引さを反省しつつも、この家族がアメリカにとって示している意味について、最後に考えてみようと思う。
 まず、このジェイムズ家はアメリカ移民者の2世、3世であったが、実質的には、祖父ジェイムズと同様、体質的に故郷喪失の根無し草である意識を残し続けていた。こういった意識がアウトローとなったフランクとジェシー兄弟にまであったかどうかは知るすべもないが、一般的に大なり小なり、アメリカ人の意識の中に織り込まれていたのではなかろうか。これに対する前向きな対処は自らコスモポリタン、今流に言えば国際人としての自覚を意識的に植えつけることであったか、又は自由人で作られた国家の一員としての意識の昂揚とその発露であったかのどちらか、ないしはその両方を混在させたものであっただろう。考えてみれば、アメリカ人の存在そのものが国際人的なのであり、例えば、形だけ二重国籍を持っていたとしても、それは深刻な問題ではなかったのである。従って、ヘンリーのように、国籍を放棄することも別の意味で同様でなかったかと思われる。
 ただし、コスモポリタンなりに、あるいは故郷を持たぬと意識している人なりに、自らのアイデンティティーを求める気持ちも強かっただろう。そのアイデンティティーづくりの要因は、民族に見られる如く「血」のようなものであってはいけなかった。まさに「自由を守る」イデオロギー的なものでなければならなかった。そしてひとたびその意志によって国家の一員となった以上は、自由を妨げるものは「悪」なのであり、その「悪」に対しては、どのような事情があれ、駆逐すべく積極的行動をとることが、「正義」になり、かつアイデンティティーの存在の証になると認識されたのである。ウィリアムの「プラグマティズム」の底流にある主意主義的な主張は、そう言った意味で、アメリカ人に受け入れられ、「アメリカの精神」にもなりえたのである。ヘンリーの行動について言えば、その「非行動的な観察者」的資質の故に、アメリカにはなじめなかったせいだろうが、それも又「故郷喪失者」の持つ一つのアイデンティティー作りなのだと、私には思われてならない。
 ただ一つ問題なのは、確かにコスモポリタン的な考え方は「アメリカ化」に結びつくとしても、それが「自由」擁護のイデオロギーと結びつくと、すべて「アメリカ化」することが正義だとする神話が形成されうる危険性の存在である。現在のアメリカにも問題があるとされるのも、その神話に影響されているからとも言えようか。
 たかだか19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した二人の人物の活躍ぶりから、彼らの考えが今日のアメリカにも通用しているのだとするのは危険かも知れない。しかし彼らの死後、彼らの考えが一過的に終わったのではなく、再びアメリカで取りざたされたのは、何かそこにアメリカ人の持つ本質的なものに対して訴えかけているものがあったからだとも言える。即ち、1940年代、第二次世界大戦が終わって、いわゆる「ジェイムズブーム」が起こり、ヘンリーの作品が再び注目を浴び、それこそ雨後の竹の子の如くに、研究する者が現れた。ヘンリーの言う「国際状況」が新たな衣服をまとって顕在化されてきたためなのは言うまでもない。
 又1960年代に、いわゆる「ジェイムズルネッサンス」が起こり、ウィリアムの著作が違った目で見られるようになった。彼のプラグマティズムの考え方はアメリカ人の当面の生き方に対する即効性を持ち、たちまちにしてアメリカの精神の形成に与った。しかしアメリカはヨーロッパの価値観に反対してできた国ではなかったのか。ウィリアムがプラグマティズムを提唱した背景には、これまでヨーロッパの思想界を牛耳ってきた主体と客体の二元論的な思考習慣に対する批判の機運があったからだった。ウィリアムの「認識論」がそのアメリカの精神の根幹を形成する役割を果たしていると、アメリカ人をして受け取らせたのは、これ又言うまでもないだろう。
 ただしこれは、あくまでもアメリカに限っての話である。どういうわけか、われらの主人公であるウィリアムとヘンリーは共に日本ではあまり歓迎されてはいなかったし、今もそうである。ウィリアムについては、元々「プラグマティズム」は哲学であるとは思わない人が多かったせいもあるが、それこそ「三流」の哲学者で、研究するに値しないと考えられているようである。従って、ごく一部の者が、一流の哲学者との関連で、刺身のつまの如く、取り扱っているにすぎなかった。ヘンリーについては、手法としては、プルーストやジョイスやカフカに通じるものがありながら、彼らほど読まれておらず、研究者もごく少なかった。文体が難解なせいもあるが、「国際状況」がテーマということから、日本人にはとんと関係がないと思われたせいだろうか。
 もっとも、夏目漱石や西田幾多郎にも愛好されたように、ウィリアムの考えは案外東洋的な考えも含まれていることを考えれば、又これから「国際化」の時代だとやっと認識する日本人が増えてきたことを考え併せれば、彼らの作品にも注目がいくようになるかも知れないが、それは特別に彼らにかかわった日本人のみの淡い期待なのかも知れない。いずれにしても、私は「アメリカとは何か」を念頭に、ウィリアムとヘンリーを見てきたのであるが、日本がこの二人を無視していることの現状を見るにつけ、逆に「日本とは何か」、「日本の文化とは何か」を、まず先にする必要があるのではないかとの、思いにもとらわれてくるのである。



(1) The Correspondence of William James(University Press of Virginia,1993), (abbr.The Correspondence), p.xvii
(2)  例えば、最近刊行された著作集で入手しやすく、かつ権威あるのは次の通りである。
The Works of William James, 19 Vols(Harvard University Press,1975-88)
The Novels and Tales of Henry James, The New York Edition, 25 Vols (Scribner's,1961-5)
The Complete Tales of Henry James, 12 Vols(Lippincott, 1961-4)
The Complete Plays of Henry James(Lippincott,1949)
(3)  ウィリアムとヘンリーの解説書や伝記や日記が刊行されるのは当然として、最近の傾向として、彼ら以外のジェイムズ家の人間に論及する書物までが刊行されるようになってきた。ジェイムズ家の人間が現在のアメリカ人の心にも触れるところがあるか  らなのだろうか。例えば、J.Strouse;Alice James:A Biography(Houghton Miffin,1980), R.B.Yeazell;The Death and Letters of Alice James(Univ. of California Press,1981), J.Maher;Biography of Broken Fortune:Wilkie and Bob,Rrothers of William,Henry,and Alice James(Arcon,1986), Alfred Habegger's forthcoming biography of Henry James,Sr.(Farrar,Straus and Giroux,1994)等が挙げられる。
(4)  拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』(法律文化社)、1973年、P.317
(5)  周知のように、自分の名前を子供にも付けられると言うのが、アメリカでは当たり 前になっている。日本ではそれが許されてないので、奇異に見えるらしく、おかげで 日本のウィリアムとヘンリーの研究者のほとんどが、ジェイムズ家にはその名前が多 いことを付言する衝動に駆られる。
(6)  本編を書くに当たっては、本編で紹介した著作を参考にしたのは、勿論であるが、その他に、『ヘンリー・ジェイムズ』(研究社、1967)等に掲載した谷口陸男氏の解説、秋山正幸氏の『ヘンリー・ジェイムズ作品研究』(南雲堂、1981)及び中村真一郎氏の『小説家ヘンリー・ジェイムズ』(集英社、1991)を大いに参考にさせていただいた。ここに謝意を表したい。
(7) R.B.Perry;The Thought and Character of William James(Little,Brown,1935), Vol.1, P.202
(8) J.Maher;Biography of Broken Fortune, p.149
(9) The Letters of William James, Selected and Edited with Biographical Introduction and Notes by his Son Henry James(Longmans,Green, 1920),(abbr. L.W.J), vol.1, p.209
(10) The Correspondence, p.96
(11) Henry James; Hawthorne, Cornell University Press, 1966, p.34(引用文は秋山 正幸訳による)
(12) L.W.J., p.209
(13) 確かに『信頼』を初めとしたヘンリーの諸作品には、思想的にも、行動的にも対照的に描かれている二人の人物がよく登場しているのは事実である。それでもって彼らがウィリアムとヘンリーを指していると一方的に決めつけるのはどうかと思われる。
(14)  「間接手法」とは作品に登場する一人の人物の目を通して登場人物の行動や心理を 語ろうとする手法のことで、ヘンリー・ジェイムズが最初に用いたと言われている。

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